自分が決断すれば、世界は一瞬で変わるという。
でも、ぼくが「変わってきたな。」と実感し始めたのは、会社をやめてから6ヶ月後からだ。
6ヶ月も経ってようやく、というのはなぜだろうか。
ぼくが会社を辞めてから、実際に経験したことから考えてみようと思う。
変わることのない当たり前の世界
ぼくの実感としてはこうだ。
決断するというのはものすごいパワーが必要だ。
だから、いざ決断して実行に移したとき、立っている場所は決断する前とは明らかに違う場所なのだろう。
場所という言葉を『世界』と言い換えてもいいかもしれない。
しかし、まだ見たことのない、経験したことのない世界は、実行前の世界と同じ姿をしている。
それは当たり前だ。
自分が住んでいる世界は、人を人、木を木、子がいれば産んだ親がいる、など自分以外の人と多くのもの、多くの情報を共有している。
ハゲていても長髪でも、黒髪でも金髪でも、目が黒くても青くても、男でも女でも、みんなそれを人と認識できる世界だ。
たとえオーラが見えるようになったり、守護霊のメッセージが聞こえるようになっても、吉野家で売っているものは牛丼だし、飼っている猫のみーちゃんが大きな虎になることはない。
みんなが当たり前に同じように認識できるものは、脳が壊れない限り変わることはない。
ぼくも辞めた時は、特に目の前から嫌いな人が消滅したり、猫が喋り出したり、お金が降ってきたりするわけもなく、これまで通り、お腹は空くし、読書はするし、旅行もするし、お化けも見えなかった。
でも、思っていた以上に目の前は暗闇だった。
何かが変わった気がするのに、何も見えない、聞こえない、触れない。
カメラで撮影しても、心霊は映らない。
何の実感も感触もないのだ。
約束のある世界で再び幼子のように
真っ暗闇無音の中、手探りするが、そもそも自分がどの方角を向いているのか、一人なのか何かと対面しているのか、ここは外なのか室内なのか、何一つわからない状態で歩いている気分だった。
しかし、自分が生きているのは約束のある世界。
決して真っ暗闇というわけではない。
だんだん目が慣れてくる。
耳がわずかな小さな音を拾い始める。
皮膚が何かを感じ始める。
幼い頃、初めてレモンを食べた時、ただ酸っぱい反応をするだけで、それが酸っぱいという味覚であることは後から知った。
その酸っぱいが、レモンと梅干しでは異なると知るのはまた別の機会だ。
会社を辞めてからは、当然だが休暇の申請をせずに気が向いた時に適当な曜日から好きな日数を旅行した。
飛行機代が安い曜日から飛行機代が安い曜日までという選択をして旅行する、なんていうこともできた。
住んでみたかった街に1週間滞在し、来る日も来る日も街をぶらつき、地元のカフェでコーヒーをしながら読書をし、ぼーっと街ゆく人を眺めていた。
平日に気になった場所へ出かけた。
平日のお昼はどこも空いていた。
気になった場所で働いている人と話ができた。
これまでに出会うことのなかったタイプの人と知り合いになった。
会社に勤めていた時には書籍やネットで知識として漠然と知っていた、社会の不公平、労働方法の無駄な部分が、そこから外れて改めてリアルに見えてきた。
確かに世界は一瞬で変わる、けど・・・。
確かに世界は変わっていた。
ただその瞬間には認識できなかったけど、暗闇にだんだん目が慣れて周りが見えてくるように、変わった部分が見え、感じ始めた。
こうも例えられるか。
新しい世界に飛び出したら、脳内センサーのOFFにされていた機能がONになって、これまでに拾っていなかった情報が上乗せされていきなり洪水のように流れてきたために、情報処理が追いつけていない。
眩しすぎて、まだ何色かわからない。
これからもまだまだ見えてくるもの、感じられるものは増え、鮮明になっていくだろう。
実際、ぼくが世界で感じるもの、見えてくるものは2年、3年と過ぎる中でどんどんと変わっている。
それは、小学校かから中学校、高校と成長する中でいつの間にか信じ込んできた常識のおかしい部分だったり、考えてみれば当たり前だけど会社員でいるかぎりは見ようともしないことだったりする。
それは時々、恐怖心が起きて足がすくむことも正直に言って多い。
でも、そのうち慣れるさ。
その時に見える世界を楽しみにしていろ、だ。
確かに世界は一瞬で変わる。
この言葉は、正しい。
が、誤解を招きやすい。